平日の毎朝9時15分。始業まで後45分。
通勤に1時間半。逆算すれば家で朝食を摂る時間が無い。
今日も吊るしてあっただけの
昨日のスーツを再び身にまとい、
行ってくる、の挨拶も無く出たんだった。


会社の近くにある、個人経営のこじんまりした
喫茶店のモーニングサービスを
利用するようになって数ヶ月。

 
大学時代から馴れ合うようにして結婚した妻は
そのまま専業主婦となり、引きこもりのようになった。
家事一切をすることなく、仕事を辞めた時点から
まるで結婚したことが自らの失敗だったと言わんばかりの
姿勢で自分を無言で責め立てる。

 
家に戻って妻の顔を見るより、
平日の毎朝ホットドッグセットを笑顔で出してくれる
店員の女の子に会うだけでホッとするなんて、
妙なもんだ…。

 
週末に控えた、大学ラグビーOB親善交流試合の役員として
仕事のことも家庭のことも若干棚上げにしてきた。
それもあと数日ですべて終わる。
OB会は侮れない。
さまざまな交流のきっかけとして
役立つこともままあるのだから。
休日返上で準備を仕切ってきた、この試合の次第で、
オレ自身も対外的な評価が決まる。 

  
「あっ!!」

 
ふと見上げた目の前に、違和感のある濃茶色。
書き物をしていた薄いノートがコーヒーの匂いに染まる。

 
机の角にカバンを引っ掛け、
バランスを崩した女性の手にあったトレイ上の飲み物が
オレの席の机上にぶちまかれた、というわけか。

 
「ご、ごめんなさい!本当申し訳ありません!」


恐ろしく好みのタイプの女性だった。
それだけで大抵の男は3割増で寛容になれるはずだ。
違うか?
オレはそうだ。


「・・・あ、いいえ、いいですよ・・・」


大慌てでレジカウンターに飛んで行き、
クロスを手に戻ってくる女性。
机のノートの惨状を見て、眉間に深い皺を刻み込み
オレの背広に被害は無いかを
甲斐甲斐しく確認しようとする。


ビジネススーツのプレスの利いたラインと、
くびれた腰から慎ましやかな尻への線が、
彼女の律儀さを表しているようで、妙に心を揺さぶられる。

 
どんなに拭いたとしても、
紙に染み込んだ茶色は取りきれず 
彼女は「貴方が仕事に遅れては申し訳ないので」という
一言と共に名刺と携帯番号を寄越してきたので、
こちらも同じように返す。
 
 
…まあ、ノートが一冊だめになっただけのことで
本来のデータや必要事項はノートパソコンに
入っていたため、本当に損害は無いに等しかった。


むしろ、自分のタイプの
女性の名前と携帯番号を得ることができたことに
僥倖と先行きの光を感じて、その日は一日機嫌がよかった。
    
   
 
週末の親善試合の会場に、オレは妻を誘わなかった。
どうせ彼女のそばに居てやれないのが分かっていたし、
もともと大学時代から
オレがラグビーで怪我をするたびに心配し、不安がり、
「できることなら止めて」と言った彼女は
卒業して社会人になってからも
ラグビーとの関わりを持とうとするオレを
理解しようともしない。
薄い、壁のような、お互いに壊しあえないものを、
いつしか日常の中で築いてしまったオレ達。
 

当日はバタバタと試合をセッティングし、選手を誘導し、
結果発表から解散、二次会の会食場所を案内するに至り、
ようやっと一息つけた夕刻のオレンジ色の空が
まぶしく感じる。
 
 
「あの!」


コーヒーぶっこぼしの彼女が目の前に居た。
私服もめちゃくちゃかわいい。

 
「あっ・・・と、えーっと。こんにちは、あ、こんばんは、か?」

「あの・・・わたし、相手校の女マネだったんで
 今日お手伝いに来ていたんです・・・
 ・・・ノート、大丈夫でしたか・・・?」

 
自分の興味の範疇に彼女が居たことが嬉しく、
妙に勇気が出てしまった。


「それは、大丈夫でしたよ。ところで二次会いかれます?
 オレはここでお役目御免なんで、
 行っても行かなくてもいいんですけど
 もしあなたが行くんだったら、オレも行こうかな…?」
 
「わたし、も、ここで帰ろうか、どうするか迷っていたんです」

「そうですか。むっさいのと飲むのもなんですから、
 よかったら一緒に飯、食いに行きませんか?」

「じゃあ、せめて、だめにしてしまったノート代くらい、
 私に一杯おごらせてください。いいですよね?」


会話をして、初めて気がつく。
女性と穏やかに仕事以外の話をしたのも、
ずいぶんと久しぶりだったことに。


結婚をしていることも、素直に話せたし、
彼女が現在誰とも交際していないことも、
まったく作為を感じることなく聞くことが出来た。


ラグビー、趣味、大学時代最も熱中したこと、
好きな食べ物、好きな映画、好きな音楽、
食事をしていても話が尽きることが無かった。
女性と話していて、心から笑ったのは、初めてだった。
短時間なのに、薄い共感のヴェールが何層も
お互いの認識の中に積み重なってゆく。


酔いを理由に、
普段なら絶対に言わない言葉を投げかけてみる。


「あのさ…突然こんなこと言うのって、本当、初めてなんだけど」

「なんですか?」 にっこりとほほを染めながら笑う彼女。

「オレ、自分の選択に後悔したことなんて、今まで全く無かった。」

「そうですか。」

「今日、この定期使って家に帰りたくないんだよな。
 君と、一緒に居たいと思ってる。」


薄い、薄い一枚の定期を振りかざして、彼女の返答を待った。









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